柳ヶ瀬画廊

柳ヶ瀬画廊

創業大正8年
熊谷守一・香月泰男・藤田嗣治など
内外洋画巨匠作品取扱の老舗画廊

   

画廊ブログ「絵画のたのしみ」

2022.01.28

《作品紹介》熊谷守一

柳ケ瀬画廊では新年恒例の「新春逸品展」を開催中です。

展示作品の中から、毎日1作家、お薦めの作品とともにご紹介しています。

柳ケ瀬画廊では 今回の展覧会でも熊谷守一先生の作品を飾っています。
先代社長が 交流のあった武者小路実篤先生から熊谷守一先生をご紹介いただいた日から今日まで、熊谷先生の生まれた岐阜の地の画廊として多くの作品を扱い、いつも画廊には熊谷作品をなにか展示するようにしている画家です。

熊谷先生は1880年に岐阜県恵那郡付知村、現在の岐阜県中津川市付知町に生まれました。
いまも同地では熊谷先生の顕彰のため、熊谷守一つけち記念館さんが運営されています。

中津川市で生まれた熊谷先生でしたが、お父様の熊谷孫六郎氏が実業家であり政治家である人物で、岐阜市に市制が敷かれた際には初代岐阜市長となっていることもあり、3歳になると岐阜市に移って暮らし始めます。柳ケ瀬画廊から北に10分ほど歩くと、図書館複合施設の「みんなの森 ぎふメディアコスモス」がありますが、その西のあたりに当時の熊谷邸はあったようです。
そのため、熊谷先生のエッセイを読んでいると金華山や長良川など、岐阜の地名が回想のなかで登場します。
弊社のある柳ケ瀬地区にも学友が暮らしていたそうですので、よく遊びにいらしていたかもしれませんね(*^^*)

その後、17歳で上京すると幼少期から心惹かれていた絵の道にすすむと、東京美術学校を首席で卒業します。卒業後も文展で褒状を受けるなどして活躍していましたが、思うところがあったようで30歳から35歳を郷里・付知に戻って山のなかで暮らしたりしています。
そして、気持ちの整理がついたとして再上京すると、フォーヴ風の荒々しいタッチの作品などで団体展に出品をつづけ、56歳のときには赤い輪郭線の作品を、70歳になると赤い輪郭線と簡明な色面による「モリカズ様式」にたどり着きました。

熊谷先生が亡くなってから40年以上が経ちました。
しかし、今でも作品には新鮮で瑞々しいよろこびが感じられます。
アートフェアに出展しているとたまに海外の方から「このクマガイモリカズという画家はどこにいますか、会いたいです」と声をかけられます。もう40年以上前に亡くなっていますよと答えると驚かれます。
日本の方たちには熊谷先生はよく知られていますが、海外の方にとってはまだ初めて出会うとする方が多く、前情報なしに作品そのものと向き合うと現代の画家のような感覚を覚えるようです。今も古さを感じず、魅力を放ちつづけている作品の魅力が再実感できて、毎回とてもうれしい体験です。

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会期中、展示作家16名を毎日ご紹介していたブログも本日ですべてとなりました。
改めて各作家の人生や魅力が感じられて、私自身も楽しい毎日でした。

展覧会は明後日1月30日(日)まで開催しております。
お時間ございましたらぜひ鑑賞にお出かけくださいませ。

皆様の御清鑑を心よりお待ちしております。

 

柳ケ瀬画廊 市川瑛子

2022.01.27

《作品紹介》絹谷幸二 富士

柳ケ瀬画廊では新年恒例の「新春逸品展」を開催中です。

展示作品の中から、毎日1作家、お薦めの作品とともにご紹介しています。

今回の展覧会では絹谷幸二先生の富士の作品を飾っています。
1997年に絹谷先生の個展を開催させていただいた折の作品です。
お客様からお客様へ、何度も名品と再会できることは画商の幸せですね。

絹谷先生は1943年は奈良県奈良市に生まれました。
先生の文章によると「家は猿沢池畔に古くからある料亭[明秀館]で、白樺派の作家、東大寺の上司海雲ら文人墨客、アンドレ・マルローら著名人が訪れ、祖父が集めた多くの古美術品に囲まれて育った」とあり、文化的な環境で生活されていた様子を感じることができます。豪快ながら、品の良さを伴う作風の根っこにはこの幼少期の御記憶があるのかもしれませんね。

その後、東京藝術大学美術学部油画科小磯良平教室を卒業すると、古美術の授業で法隆寺に出かけた際に法隆寺の金堂壁画に魅了された経験から大学院で壁画を学びます。そして、画壇にデビューすると独立展で最短・最年少の会員推挙を受けるなど、国内・国外で活躍を続けました。

いま、画廊に展示している作品は、絹谷先生が53歳のときに制作された作品です。
朝日ののぼる景色を、日本平から描いた名品です。
この作品を制作した翌月、絹谷先生は長野オリンピックの公式ポスター制作を依頼され、画壇だけでなく一般の美術にあまり関心のない方でも、見たことがある・聞いたことのある大家になっていきました。作家としてのターニングポイントに当たる時期の作品です。

絹谷先生は現在79歳。
弊社の「新春逸品展」の会期中の1月24日にお誕生日を迎えられました。
いまでも変わらず精力的にご活躍を続けています。

お人柄が感じられるような明るくエネルギッシュな作品です。
お時間ございましたらぜひ鑑賞にお出かけくださいませ。
皆様の御清鑑を心よりお待ちしております。

 

柳ケ瀬画廊 市川瑛子

2022.01.24

《作品紹介》須田国太郎 油彩画 花 

柳ケ瀬画廊では新年恒例の「新春逸品展」を開催中です。

展示作品の中から、毎日1作家、お薦めの作品とともにご紹介しています。

画廊の入口に須田国太郎先生の花の油彩画を飾りました。
日本画壇に限らず世界の多くの国でフランス志向が強かった時代に、スペイン美術に注目し、また、京都に拠点を置いて日本における油彩画を画家として学者として追求しつづけた洋画家です。

須田先生は1891年に京都に生まれました。京都帝国大学(現在の京都大学)で哲学を専攻しながら、絵を描き、謡曲を学び、伝統的な文化のなかで成長していきます。なかでも美術にはとりわけ関心が強く、大学卒業後は関西美術学院に入り本格的に絵を学びはじめました。その後、28歳で渡欧すると、四年間の滞在期間にプラド美術館で模写をしたり、友人たちと欧州各地に写生旅行に出かけるなど、充実した日々を過ごします。
帰国後は母校の京都帝国大学などで美術史を講義して、主に学者・教師として活躍していましたが、友人の日本画家・神坂松濤先生の強いすすめで41歳のときに東京の資生堂画廊で初めての個展を開きます。すると、それを皮切りに独立展などの団体展での作品発表や個展の開催が続き、重厚な、けぶるような黒を基調とした作風で高い評価を受けるようになっていきました。

須田先生は著書のなかで制作にあたる気持ちを「ただ油絵具を与えられ、それでかくから油絵であるというだけなら単なる間に合わせである。画をかく材料は油絵具だけではない。〔中略〕日本油絵はどんな技法を見出してきたか。技法が先ずあって油絵をかいているのではなかろうか。〔中略〕それらは皆筆者の表現と一致するものであろうか。」と語っています。
日本的な油絵というと梅原龍三郎先生や岸田劉生先生が浮かびますが、おふたりが西洋からはじまり、次第に東洋的な要素を画面に入れていったことに対して、須田先生は最初から東洋の人として油絵具という素材に挑んでいった印象を受けます。そのため、黒という重苦しいと思われる色彩を用いていても、画面に暗さや影はなく、むしろ水墨画の余白の美のような、黒があってこそ光や形や色が見えてくる作品だなあと感じることがあります(*^^*)

今回展示している作品も、須田先生らしい黒の気配がありながら、可憐な花の姿が美しい作品です。
須田作品はあまり取り扱う機会がなく、久しぶりの展示になります。
ご興味ございましたら、ぜひご覧になってみてくださいませ。

皆様のお越しを心よりお待ちしております。

 

柳ケ瀬画廊 市川瑛子

2022.01.23

《作品紹介》山口長男 油彩画 ヴェネツィアン・レッド

柳ケ瀬画廊では「新春逸品展」を開催中です。

展示作品の中から、毎日1作家、お薦めの作品とともにご紹介しています。

山口長男先生のヴェネツィアン・レッド(赤茶色)の油彩画がはいりました。
ペインティングナイフで塗った質感が特徴的な、山口先生らしい作品です。

山口先生は1902年に裕福な貿易商の家に生まれました。美術評論家の方が、山口家が家から一昼夜を馬で走っても敷地から出られないという噂は本当かと尋ねたところ「馬は馬でも、小さなロバですよ」と苦笑したと伝わるように、屋敷だけで1000坪を越す大きなおうちだったようです。
十代のころから絵が好きで、1922年には東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学します。この年の美術学校は秀才揃いで、猪熊弦一郎先生、牛島憲之先生、岡田謙三先生、荻須高徳先生、小磯良平先生が同級生にいる世代でした。彼らは仲が良く、卒業後も上杜会というグループを結成し、切磋琢磨を続けます。スター揃いの上杜会については、昨年、豊田市美術館さんで「わが青春の上杜会 昭和を生きた洋画家たち」という展覧会が開かれたので、そちらでご記憶がある方も多いかもしれません。

山口先生はその後、フランス留学を経て、キュビスムに傾倒するなどして、1930年代後半より円や線といった記号的な形態の画面へと移っていきます。また、1950年前後を境に、それまでは色彩豊かだった画面から色数が次第に減っていき、ブラック、ヴェネツィアン・レッド(赤茶色)、イエロー・オーカー(黄土色)の三色へと集約されていきます。
マチエールについても、若いころは「重苦しい」と避けていたペインティングナイフによる複数回の厚塗りについて「養分になってゆく面があるはずですから、もうこれ以上いかないというまで繰り返し、充実が出るまで繰り返します」と触感的な面白さを見つけて採用していきました。

私がとても好きな山口先生のエピソードのひとつに、岡田謙三先生とのお話があります。
山口先生の初個展の会場に、当時、写実的な絵を描いていた岡田先生が来場されたときのお話です。
会場の窓から外を見ると、雨のなかで桃色の洋服を着た女性がバスを待っていたそうです。それを見た岡田先生が山口先生に「あの女の子を見て、どう感じるかね」と声をかけると山口先生はとっさに「僕は立ってるなという感じがする」と答え、それに対して岡田先生は「それが僕と君と違うところだな。僕は桃色がある、とまず思うね」と返したそうです。
山口先生の作品は、ぱっと見ると最初に重厚感のあるマチエールが目に飛び込んでくるので、色彩や質感について語られることが多いです。でも、このエピソードを読むと、実際に山口先生が大切にされていたのは「立っているなという感じ」だったのかなと思いました。

今回展示している作品は、ヴェネツィアン・レッドとブラックの作品です。
ペインティングナイフを用いたと思われるマチエールです。

お時間ございましたらぜひ実作品をご覧にお出かけくださいませ。
皆様のご清鑑を心よりお待ちしております。

 

柳ケ瀬画廊 市川瑛子

2022.01.22

《作品紹介》麻生三郎 油彩画

柳ケ瀬画廊「新春逸品展」を開催中です。

展示作品の中から、毎日1作家、お薦めの作品とともにご紹介しています。

久しぶりに麻生三郎先生の油彩画が手に入りました。
絵画とは何か、絵画の本質とは何か を追及しつづけた洋画家の作品です。

麻生先生は1913年に現在の東京都中央区に生まれました。小学校の同級生には日本画家の鏑木清方先生がいたそうです。学生時代の麻生先生は絵が好きで、セザンヌやゴッホ、ダ・ヴィンチ、デューラーなどを好んで模写していたといわれています。
そして、17歳のときに太平洋美術学校に入学すると本格的に絵を学びはじめました。この学校は、浅井忠先生たちがつくった明治美術会からの流れを汲む太平画会の学校組織で、麻生先生はここで松本竣介先生や寺田政明先生と知り合い、彼らと一緒に画会を作ったり展覧会を開いたりして切磋琢磨していくことになります。

麻生先生の初期作品は、残念ながら空襲でアトリエごと大半が燃えてしまったのであまり現存していません。しかし、戦中戦後から2000年に87歳で亡くなるまで、多くの作品を描いてくださったので、柳ケ瀬画廊でもこれまで何点も作品を扱わせていただけています。東海地区では十年ほど前に愛知県美術館さんで大きな回顧展がひらかれたので、そちらを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

麻生先生の作品は、先生のいう「外部はわたしをつつむ異質な空間である。わたしはその空間のなかにいるのだ。」をあらわしているような黒色や灰色で覆われた画面のむこうがわに、先生のいう「わたしがたしかめたものをしっかり掴」んで描かれた存在が描かれているように感じます。それが麻生先生がエッセイで書いていらした「絵画自身の生命」なのかなと思っています。

ぱっと見るだけですと、何が描かれているか分からない難しさがあるかもしれません。
しかし、じっと画面をみていると、次第に目が慣れて、奥から形が見えてきます。
今回、手に入った作品は人物、花、虫と草の作品です。いま、画廊には花の油彩画4号(1972年制作)を飾っています。

お時間ございましたらぜひお出かけくださいませ。
皆様の御清鑑を心よりお待ちしております(*^^*)

 

柳ケ瀬画廊 市川瑛子

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